1999年6月4日金曜日

ヌリア・エスペル/ルイス・パスカル 『ロルカの闇』

舞台芸術公園「楕円堂」 6月4日

 書物の上の文字としてではなく、俳優の口から発せられる「詩」、あれは正しくはどう呼ぶのだろうか? 朗読ではないし語りでもない。詠うとも違うし、唱えるという言い方も似合わない。詩吟? ますます遠いんじゃないか? 判らないので「発詩」と造語しておく。

 演劇は詩を内包しているが、詩はそれ自身では演劇ではない。これはとても重要なことだ。テクストにどこかから引用してきた「優れた」詩をとりあえずぶち 込んで台詞にし、それを舞台にのせればとりあえず演劇の体裁は出来あがる。けれどもそれは演劇「のように見える」というだけのことで、強度を持った演劇で はない。

詩はいかにして演劇に到達するのだろうか。


 ヌリア・エスペルとルイス・パスカルは、その秘蹟をぼくたちの目の前で、惜しげもなく実行してみせた。

 客席の灯りはそのまま消えずに『ロルカの闇』は始まる。舞台に演出家が登場する。彼は俳優だ。けれどもぼくには彼が「虚」なのか「実」なのか判別出来ない。
 なんだか舞台挨拶に出てきただけのようにも見える。
 「今夜私は、詩人の言葉で、あなたたちに語りかける事になりました。そしてフェデリコ・ガルシア・ロルカの並み居る女性の魂に命を与える偉大な女優は、ヌリア・エスペルです」
 あれれ、やっぱり舞台挨拶? 続いて女優の登場。みなさま、本日はようこそご来場下さいました、とでもいうかのように。
 ルイス・パスカルが詩のタイトルを言い、ヌリア・エスペルが「発詩」する。なんだろう、これは? ロルカの詩の会? でも・・・・。

 ぼくは「詩」の魅力が理解出来なくても、「詩の力」は理解出来る。と思う。詩が世界を変化させることをぼくは知っている。だからぼくは、そこが「劇場」 であることを呪った。もしもそこが街角のカフェだったら、もしもそこが人々の行き交う雑踏だったら、もしもそこが真夜中のアパートの屋上だったら、もしも そこが爆撃に恐怖する家族が肩を寄せ合う倉庫だったら。詩は空間を何か別のものへ変容させたに違いないのだ。
 でも劇場は、相も変わらず劇場のままであった。
 だったら、例えばこの「楕円堂」の舞台の上で、「生体肝移植手術」が行われたとしたら、それは演劇として認知されるだろうか。たぶん、それは演劇になる。 なぜならそこが劇場であるかぎり、その中で起きた/行われた出来事は、それを望もうと望むまいと、演劇で有り得るのだから。
 情熱的に、あるいは哀切に、あるいは暴力的に、女優はロルカを発詩する。なんだろう、これは? はい、ロルカの詩です。でも・・・・。

 ところが「場」はルイス・パスカルが口にする一つの言葉を合図に一変した。「アカリ!(おそらく日本語で、明かり、だと思う)」。そこに、この劇場に、 まぎれもない演劇が突如として立ち上がったのである。「演劇」としか言いようのない「あるもの」がぼくたちを完璧に包み込んだのだった。
 興奮した。この至福。大声をあげて劇場を飛び出し、「全ての夜を集めて、叫」びたいくらいだった。ヌリア・エスペルは『血の婚礼』を演じる。先日スイス のテアトロ・マランドロが上演した『血の婚礼』の、太陽の輝きのような「具体」の陰に隠れていた、月のような演劇の真の輝きが、ここでははっきりと姿を見 せる。
 ミューズ降臨! ああ、演劇の神様(としか言いようがないのでこう呼ぶ)、ここにいたのですか、さんざん探しちゃいましたよ、シアター・オリンピックス中を・・・・(ダンスのミューズは『ディスコルダンシア』で確認済み)。
 その後、舞台は再度反転し、「発詩」に戻ってしまう。「詩を朗読します」とルイス・パスカルが言う。だが、「演劇」は消え去らない、ミューズはその場から立ち去らないのである。
 これは本当に幸せな演劇の時間である。

『ロルカの闇』にはぼくが考える演劇の真髄がたしかにあった。




今日の御挨拶  木内弥子さん(美人)/小山史野さん(SPACダンス ※SPACの方たちは、公演がないときは舞台芸術公園のレストラン「カチカチ山」を手伝っている ようなんだけど、小山さんはそこでフロアー係りをやってる。彼女にコーヒーを運んでもらいたいばかりに、『ロルカの闇』の上演前後、二度も「カチカチ山」 に入ってしまった俺。ところで「カチカチ山」では日本平の野性のタヌキに餌づけしていて、よくテラスのところへタヌキがやってくる。でもたしか『カチカチ 山』って話は・・・・。大丈夫か、タヌキくん?)

今日の目撃  夏木マリさん(女優+美人)

1999年5月22日土曜日

国際共同作品 ロジャー・レイノルズ 『縁』

グランシップ静岡芸術劇場 5月22日

 莫迦にするな、とまでは言わぬにしても、とにかくユルイのだ。これのどこがEDGEなのだろうか?
 EDGEとは何か。ぼくの(俺的)定義では、EDGEは、神と人間の間に引かれた分割線だ。表現可能なギリギリのラインであり、人間の側から見れば、 EDGEの向こう側は不可知の領域、すなわちゴッドサイドである。その意味でテクノロジーの最前線もEDGEだ。ミクロにしろマクロにしろ、人間の知覚外の事象と対峙している人々は、たしかにEDGEに立っている。EDGEは「神」をかいま見ることが出来る可能性を秘めた場であり、またそうでなければならない。
 パンフレットにもわざわざこう記載されている。
「TECHNOLOGYテクノロジー/MUSIC音楽/THEATER演劇」
ここで言うテクノロジーとはどういう性格のものだろうか。医療テクノロジーと演劇が結合したとして、いかなる舞台が出現するのか? コンピューターと演劇が結合した時、どのような舞台が出現するのか? コンピューターが俳優の動きをスキャンして、それを即座に音楽化することは可能だろうか? コンピューターが俳優の声音と照明を連動させることは可能だろうか? 軍事技術はいかにして演劇に応用できるのか?
 『縁』。莫迦にするな、とまでは言わぬにしても、とにかくユルイのだ。これのどこがテクノロジーなのだろうか? 音響テクノロジーですか? だったら莫迦にするな、と言う。七十年代以降、数々のノイズ/アヴァンギャルド・ミュージシャンたちが行ってきた偉大な音響実験をこの連中はどう考えているのか?
 たしか鈴木忠志さんは『リア王』の音楽でLAIBACHを使っていた。だったら、S.R.L.、SPK、TG、NWW、WHITE HOUSE、こういった表現者も押さえているんでしょうね。知りませんか?

 数年前のある集会において、ぼくは鈴木忠志さんに次のような質問をした。
「表現の辺境についてはどう思われますか。舞台芸術センターは、辺境文化も視野に入れているのでしょうか?」
 鈴木忠志さんはこうおっしゃった。「表現には辺境など存在しないと思います」

 「縁」は三部構成である。まず最初はパーカッショニストのソロプレイ。パンフレットに作曲者が明記されているから、即興演奏ではないのだろう。
 ユルイ・・・・。そのくせ押しが強い。修道僧のような身なりをした演奏者の身体性、その身振り、目障りなことおびただしい。思わせぶりなキメ。気合いをイれて、あるいはヌいて。
あからさまな、お約束の所作。そのたびにミューズは遠のく。

 その二。三人の活動ジャンルの異なる表現者が、舞台でギリシア悲劇のテクストを開く。音楽と歌と言葉が自在に越境する交易の場になる、予定だったのだろう。打楽器奏者は譜面(テクスト)を見ながら演奏、歌手も譜面を見ながら唱う。ここまではいい。演者の身体は、テクストを紙面から立ち上げるための媒体である。テクストの通過地点である。演者はテクストの奴隷であって、そこには自己表現などという夾雑物が入り込む余地はない。「テクスト<演者」ではなく、「テクスト→演者」という関係において緊迫した糸が張られている。ここまではよかったのだ。
 ところが女優がいただけない。演技術が全くの的外れ。エキセントリックな台詞回し。役柄への没入を過度にアピールする「ベタ」な演技。例えば憑依した霊媒である。けれどもそれが作り事であることは、彼女が目の前の台本をめくる手つきを見れば一目瞭然。
 神降ろしの儀式の中心に「女優」がいるのは正しい。神はそれ自身で現前することはあり得ないから。「それ」は女優すなわち霊媒の身体を通して具現する。その際、女優は自我を放棄しなければならない。
 『縁』第二部の舞台上の女優は「忘我」などとは無縁。彼女自身の狂気を演じているように見せただけであり、またしてもミューズは遠のく。
 そして第三部はSPACの登場。ええっ・・・・! 何ですか、これは? 演歌ギリシア悲劇? これってEDGE? 鼻メガネとヒゲ・・・・。S石さんのそっくりさん? 笑っていいんですか? いいんでしょうね? あーあ、ユルイEDGE。

He was on edge. (彼はイライラしていた)研究社新英和中辞典


今日の御挨拶  鮎都さん(女子高生女優)/原千尋さん(フリー女優)
今日の目撃  鈴木忠志さん

1999年5月16日日曜日

シンポジウム『異文化の出会いと共存の可能性』

グランシップ11F会議ホール 5月16日

Herbert Blau/Tony Harrison/喜志哲雄

私は書くことにおいて演劇活動を持続する!
─────── ハーバート・ブラウ

 今回、ぼくは静岡県舞台芸術振興室(でいいのか?)のFさんに感謝している。もしもFさんからの誘いがなければ、ぼくはこのシンポジウムに参加しなかったかもしれない。

 最初、聴講者の顔ぶれを見て、いつものごとくぼくは憤慨した。いったい何やってンだよ、静岡の演劇人、何故ここにいないンだよ! でも今は違う。気が変わった。地域劇団(この呼称っていったい何だ?)の連中がいなくて本当に良かったと思っている(そうですよね、鈴木忠志さん。ふふふ)。何故ならば、この日この場で、ハーバート・ブラウによって、「演劇」の最重要な秘密が開示されてしまったのである。あからさまに。

 スゲエ奴だ。たまげた。とんでもない奴。ハーバート・ブラウ。本物の演劇人だ。彼の発言のひとつひとつの全てが、シアター・オリンピックスに対する、途方もない一撃をはらんだものだった。お前は演劇のシヴァ神か?

 ハーバート・ブラウ。不覚にも今までこの人物を知らなかった。バロウズとキッシンジャーが混ざってる容貌。ジジイ! でも超バイオレンス。仏陀に遭ったら仏陀を殺す男。彼の発言のひとつひとつの全てがキメ台詞である。こりゃいただきだ!

 最初から妙な雰囲気だった。このシンポジウムの「言い出しっぺ」の高橋康也が欠席。急病で来られなくなったというのだ。えー、なにそれー? ハイナー・ミュラーの呪いですか?
パネラーが一人足りない。鈴木忠志さんが参加を請われていたが辞退。ぼくの目には、鈴木忠志さんがしり込みしている「ように見えた」。たしかに最初から不穏な気配はあったのだ。
 荒れたとか、剣呑とか、そういうことじゃなくて、どう言えばいいんだ。本気でさ、ユーゴの空爆やコソボの虐殺を演劇とつなげて考えてるんだよ、トニー・ハリソンもブラウも。演劇が現代のPsywarにおいて、依然として戦略たりえることを・・・。

 おい、ちょっと待てよ、そんなこと言っちゃ駄目だ、とは思わなかった、その時は。ステージがあったらダイブしたいくらいだったからね。で、今になってみると、ハーバート・ブラウはあんな風に「秘密」を教えるべきではなかったのだと。それとも会場にいた人々が「それ」を必要としていたのだろうか。

 うーん、やだなー、こういう思わせぶりな書き方。特権的な体験を自慢してるっていうか。あ、でもハーバート・ブラウ先生をスゲエって思ったの、ぼくだけってこともあるんだよな。ぼくが再度、「秘密」の解説をしたって、かえって馬鹿にされるだけかも知れない。

 ということで、ぼくはそこで見たもの(惨劇)の全容を伝えるのは止めにする。実はハーバート・ブラウが言っているのだ。サイバー・スペースが秘密を無制限にばらまいていると。




今日の御挨拶  マダムO
今日の目撃  宮城聰さん/鈴木忠志さん/ジョン・ノブスさんご夫妻

1999年4月24日土曜日

レンコム劇場 『かもめ』

グランシップ中ホール 4月24日

 あああ、不覚というか油断というか、マジで泣いちゃったよ、俺。隣の席で観劇していた女子高生には、なにこのオヤジって感じで嫌がられちゃったみ たい。でも別に感動したってわけでもないし、『タイタニック』観て泣いちゃうような、そんなんじゃないんだよ。 いや、ホント、言い訳じゃないって。あの ね、自分の感情とか心理とかと関係なく、身体生理のほうが勝手に反応しちゃうの。ホントだってば。ニーナ(役名)の動きや声のイントネーションや台詞の間 合い、とにかくそういったものをぼんやりと(うっかりと)聞いていると、あれよあれよといううちに涙腺が刺激されちゃうんだよ。
 自分でもおかしいなと思ったもん。なんで俺、泣いてんだろうって。だってそうじゃん、俳優の感情が伝わってくるはずないでしょ、台詞の意味が判んないんだから。感情移入なんて起こりようがないんじゃないの。テレパシー? 
 家に帰ってからじっくり考えた。恐るべし、ロシア演劇って思ったね。技術なんだよ、これ。スタニスラフスキー・システムってこういうことだったんだよ。言語の意味を超越した演技の技術なんだよ。洗脳のテクニックと同じさ。
 一幕目は気合いを入れて観ていた。そんときはなんともなかったんだ。こっちも勝負に出ていたからね。ところがさ、幕間に罠がしかけられていたんだよ。二 幕目になると舞台装置が一変するんだけどさ、どういう訳か「吊り物」が落ちちゃって、裏方がそれをなおすのにえらく手間取っているんだよ。おいおい、そん なのもういいから早く始めてくれよって感じだった。客席はだれちゃってざわつくしさ、誰かのくしゃみで苦笑が起こるしさ、なんか緊張感が完全に切れちゃっ たんだ。なんとなく判るでしょ、そういう状況。
 で、俺も漫然と見始めちゃったんだよ。まさかこんなことになるとは思わなかったもん。それがいけなかったんだよ。迂闊だった。意識の集中度が高ければ洗脳になんか引っかからないよ。
 俺が言ってる事、理解できない? 納得できない? じゃあさ、例えばくもりガラスを爪で引っ掻く音ってあるじゃん、あれって何で不快なの? 蜘蛛とか蛇とか百足とかって、何で気持ち悪いの? それって生理的な反応でさ、理性なんかと関係なく生じているんじゃないの?
 だから俺の反応も同じなんだよ。俺の意志とは無関係に引き出されちゃってるの。つまりさ、「感情」の後付けなんだよ。自分の生理的状態に対して、後から感情的な根拠を与えているんだよ。怖いだろ、こう云うの。凄いよ、ロシア演劇。

 ということでさ、貴重な体験をさせてもらった。実に良かった、『かもめ』。信じてくれたのかな?


今日の御挨拶  木内弥子さん(美人)/マダムO
今日の目撃  ジャン=クロード・ガロッタさん

1999年4月18日日曜日

ロバート・ウィルソン 『モノローグ ハムレット』

静岡芸術劇場 4月18日

バカになれってんだ。
───────ロバート・ウィルソン

ロバート・ウィルソン
 ロバート・ウィルソン。あのロバート・ウィルソンだぞ。現代演劇に燦然と輝く巨星である(と思っていた)。たぶんその名前は七十年代から知っていたはずだ。テレビニュースで『聾者の視線』のワンシーンを見たのは、あれはいつのことだったか。
『浜辺のアインシュタイン』、『CIVIL warS』、次々に伝説となる舞台。実際の舞台を観ていないだけに、ぼくのイメージの中では勝手にカルト化が進行していた。
『モノローグ ハムレット』。ロバート・ウィルソンのソロプレイ。そりゃあ観るしかないでしょう、なにはともあれ。観ないわけにはゆかないじゃないか。
 でもシェイクスピア。でもなあ、『ハムレット』かあ。どうもシェイクスピアとは相性が悪い。面白いと思ったことがないのだ。『ハムレット』とも相性が悪 いらしい。戯曲を読んでも途中でつまずく。ケネス・ブラナーの映画は寝てしまった。体調が良くなかったためかもしれないけれど、ストーリーに魅力を感じな いのだ。だけど、あのロバート・ウィルソンだからな。なにはともあれ、観ないわけにはゆかないじゃないか。
 「イメージの演劇」? なんだそれ? さっぱり判らないぞ。ああ、それでも、あのロバート・ウィルソンだからな。なにはともあれ、観る。

ハイナー・ミュラー

 シアター・オリンピックスは、ハイナー・ミュラーの亡霊がうろついている。特にロバート・ウィルソンには、背後霊のようにミュラーがつきまとっている。
『ハムレット』はウィルソンとミュラーの因果の象徴だ。ミュラーの『ハムレット・マシーン』は、彼の名を世界的劇作家として不動のものにした。そのミュラーが唯一称賛を贈った『ハムレット・マシーン』の演出者がウィルソンである。
 ウィルソンがハムレットを演じるのならば、そこには当然の如く、暗殺されたデンマーク王の亡霊としてミュラーが立ち現れる。

モノローグ

 なぜモノローグなのか。ウィルソンは『ハムレット』のテクストから、時間軸に沿った事件という枠組みを取り外そうとした。物語を律する時制を解体したのである。
 ウィルソンはパンフレットに次のように記している。
「これはある意味で全て、彼の意識の中の出来事です。だから、モノローグなのです。」
 つまりハムレット事件=物語の歴史を、ハムレットの記憶に書き換えたのである。
 ウィルソンはこうも言っている。
「舞台を特定の時間、特定の場所に位置づけ、特定の解釈を与えることは作品の可能性を狭めてしまう」
 ぼくはこの意見に同意できない。舞台(上演)とは、作品が内包する無限の可能性を、たった一つに集束させるものだ。演出はそのために存在するのだし、多義的な解釈が可能な演劇にはなんの意味もない。
 また、ここで言う「舞台」が、「物語の舞台(時・場所)」の意味であったとしても、「いつでもないいつか、どこでもないどこか」というような言い回しは、「いま・ここ」を真摯に生きる観客に対して怠慢なのではないかとぼくは思う。
 まあいいや、どう読んでもご随意にということなら、そうさせてもらう。
 さて、ミュラーはこんな言葉を残している。
「わたしをとらえて離さぬ問題こそは、いかにして一つのテクストが、それを話す役者からは自立して、舞台のうえで一つのリアリティへと転化することができ るのか、ということです。・・・・テクストというのは、何かを伝達するものとして、つまりは何かの情報として送り出されるものであってはならず、空間のな かを自由に飛翔するメロディーであらねばならぬのです」
 ミュラーが『ハムレット・マシーン』の上演に関してこのようなことを考えていたのならば、ウィルソンが演出家として最高の適任者であったこともうなずける。なぜならウィルソンの『モノローグ ハムレット』は、まさしくミュラーの言葉を具現化したものだったからだ。
 ただし、この「具現化」の成立にはいくつかの幸運が関与している。
 まずテクストが英語で語られているということ。英語の台詞を充分に理解できない観客は、ウィルソンがテクストの時制を解体するまでもなく、あらかじめ意 味の呪縛から自由である。テクストが情報としての価値を持たないのだ。ここでは物語が機能していない。したがって創作者の思惑を離れた地点で、演劇から文 学性(物語)が排除されている。台詞の意味するところが理解できなくても、なんら支障はないのである。
 舞台体験はウィルソンの発声を聴き、身体の動きを観ることだけで完結する。舞台脇の字幕を読み、物語を追おうとするとき、観客は『モノローグ ハムレット』の演出意図に逆行する。この舞台の楽しみ方を失ってしまうのである。
『モノローグ ハムレット』が音楽的な(そして美術的な、建築的な)演劇であったことも幸いした。サウンドスケープは実に素晴らしいものであった。立体的 な音像。多チャンネルを駆使して音楽や効果音や、意味を剥奪されて単なる音と化した台詞が、会場の様々な方向から聞こえてくる。最初はウィルソンがマイク を使っているのが少々意外だったが、小規模な劇場だから、会場全体に台詞が聞こえるようにするという用途ではなく、PAから出る、事前に録音された台詞の 質感と、舞台で発声される台詞の質感を統一するために使ったのだと解釈して納得した。
(やるだろうな、と思っていたら、案の定やった。ほんの一場面だが、マイクを通した声にエフェクターをかけて、野獣の咆哮のような声に変型していた。そう そう、マイクはそういう風に使わなくちゃね、お約束として。待てよ、まさかそれだけのためのマイクじゃないだろうな?)。
 洗練されたサウンドデザインを可能にしているのはもちろん静岡芸術劇場の設備である。最高の音響空間。
 ライティングデザインもいい。とりわけホリゾントに焼き付くような稲妻(ライトニング)の閃光にはしびれた。
 お洒落な衣装に舞台装置。センスが合えばそれだけで気分良く楽しめる。特殊な趣味の人たちにはメガ・レコメンド。かなり「フェティッシュ」、入ってるか ら。黒一色の衣装、黒い靴、黒い手袋、黒いレザーアーマー、メタリックに輝く小道具。おいおい、なんだかゲイっぽいぞ、ええのンかあ? デレク・ジャーマ ンの『テンペスト』を想起せよ。
 だが心底驚くような新しい意匠に出会うことはなかった。
 実を言うと、ぼくはこういう舞台が好きだ(いや、フェティッシュとかゲイとか、そういうことじゃなくて・・・・)。でもこれが演劇かと問われれば、首を振る。ぼくの指向では、文学性を失った演劇は、「動く美術」だからだ(ぼくは演劇的に保守派である。たぶん)。
そしてなによりも、『モノローグ ハムレット』が一人芝居だということに首肯できない。
 一人芝居は精神病患者の独白に似ている。舞台上の男が、俺はハムレットだ、と言う。本当に彼はハムレットだろうか。観客はいつも内心こう思っている。い いや、舞台に立っているのはハムレットではない。俺は真実を知っているぞ、俺はハムレットだと言うお前は本当は、俺はハムレットだと言うロバート・ウィル ソンだ、俺はハムレットだと言うお前は本当は真田広之だ。
 では、俺はハムレットだ、と言う彼は、誰によって、お前はハムレットだ、と認知されるのか。観客ではない。彼がハムレットであると信じているのは、同じ舞台に立つ登場人物たち=他者である。
 やあ、ハムレットじゃないか、どうしたんだハムレット、きみがハムレットか。
 なるほど、あの人たちががハムレットと言うからには、たぶん彼はハムレットなんだろう、と観客。
 一人芝居には他者が存在しない。他者との関係が現れない。いかに巧みに複数のキャラクターを演じわけたとしても、それは畢竟、一人の人間の内面告白以上 のものにはなりえない。古代社会や中世ならいざしらず、ぼくたちには既に精神分裂も多重人格もすっかりおなじみになってしまっている。彼は内なる他者を表 出しているだけなのだ。
 だがそれが演劇であるためには、他者の存在が必須である。では、彼、俺はハムレットだと言うロバート・ウィルソンに対する他者はどこにいるのか。それは 観客席にいる。観客は「他者」という役柄を振りあてられて、彼の言葉に耳を傾けている。更に具体的に言うならば、観客は俳優(自分はハムレットだと言い張 るバカ=病人)をカウンセリングする医師なのである。
 観客が舞台上の虚構に参加することにより、劇場から観客が消滅する、これが一人芝居の仕掛けだ。

事件

 さて、前述した「ハイナー・ミュラー/ロバート・ウィルソン-イズム」の具現化は次のような事件によって成立する。
 上演も半ばを過ぎたあたりだろうか、劇場内に携帯電話の音が響いた。それもかなり長く。おいおい、早くなんとかしろよと思うくらい長かった。しかも、問題の携帯電話は再度鳴ったのである。
 これ以上はないほどの現実的な音(催眠術を解く合図のような)で観客は自分自身に立ち戻り、呪縛から開放された。くどいようだが、観客は演劇の外側=現実にいるから観客なのである。演劇=虚構の内部に取り込まれた観客は、もはや観客とは言えない。
 事件により、観客は担わされていた役割を解除された。客席の「聞き役」は、思いがけぬ事態に対する舞台上の男の反応を興味深く観察する野次馬へ、一瞬にして変貌したのである。 「あの人、すっごい動揺してたよね」、ぼくと一緒に観劇していた女の子はこう言った。ウィルソンが本当に動揺していたのかどうか、ぼくには判らない。けれども確かに、これを契機にして、ウィルソンの戦略は狂った。十六歳の少女にすら、演技の変化は明らかだったのだ。
 ウィルソンは凡庸な演技をしはじめた。すなわち形式が崩れたエモーショナルな演技。フツーの芝居。ところがである、意外なことに、そこからテキストに記述されなかった「真相」が現れてきた。
(俳優に必要とされているのはサブテキストに踏み込む能力、すなわち台詞と台詞の間を読む力だとされている。ホントかどうかは判らない。でもそれが正しければ、ウィルソンはまさしく名優である。皮肉だけど)。
 実に明解。ハムレットの性格に暗い影を落としていたのは、思索的傾向というよりも、マザーコンプレックスだったのである。そして、なんと、『ハムレット』はギリシア悲劇『オイディプス』の鏡像だという予感が立ち上ってくる。
 つまり「ハムレット/アンチ・オイディプス」。よし、出たぞ、ポストモダンのキーワード!
 これで完了。『モノローグ ハムレット』は、ハムレットという男の精神分析である。

 1988年、ロバート・ウィルソンはハイナー・ミュラーに言及したインタビューでこう言っている。
「バカになれってんだ。 BE stupid」
『モノローグ ハムレット』のカーテンコールで見せたウィルソンの身振りは、「ステューピッド」ではなく、「フール」であった。

そして伝説へ

 なんだい、これじゃ伝説にならないじゃないか。しょうがない、自分でやるか。
 以下はぼくが今後ばらまくつもりの『ロバート・ウィルソン モノローグ ハムレット 伝説』である。

 上演も半ばを過ぎたあたりだろうか、劇場内に携帯電話の音が響いた。
「おいロバート、ハイナー・ミュラーから電話だぜ」とぼくは思った。(ミュラーは数年前に他界した、シアター・オリンピックス委員。死後も委員名簿に名前が残っている)。
再び携帯電話が鳴った。ぼくはその時点で気づくべきだったのだ。劇場内には携帯電話の電波が入らないことに。
終演後、携帯電話の事件が話題になった。ところが、奇妙な事実が明らかになった。誰も携帯電話を受けた人物を知らないのである。
ぼくは上手側の中央の客席で観ていたのだが、下手側後方で携帯電話が鳴っていると思った。そこで、その辺りに座っていた友人にそのことを聞いた。彼はこう言った。
「え、上手の前列の方で観てる奴の電話が鳴ったんじゃないのかい?」
またある婦人はこう言っている。
「二階席の人の携帯電話、鳴ってたわね。でも一回目は仕方がないとしても、その時に切ればいいじゃない。なんで三度も鳴るの」
三度? 鳴ったのは二度だろう?
それから、高校生の女の子からはこんなことを聞いた。
「あの着メロ、趣味悪かったよね」
着メロだって? なにを言っているんだろう? 普通の着信音だったぞ・・・・。

劇場を建設中に事故死した作業員の霊だとか、いや、ロバート・ウィルソンがハムレットの亡父を召霊したのだとか、ビデオの呪いだとか、様々な噂が飛び交ったが、真相はいまだに判らぬままである。


今日の御挨拶  美濃和哥さん(歌人)
今日の目撃  鈴木忠志さん

1999年4月17日土曜日

巴蜀芸術団 『美少女・聶小倩』

グランシップ中ホール 4月17日

 いやー、こりゃあ面白いや。物語そのものはたわいのない話だけどさ。実に明るい怪異談。いいよ川劇。ハイトーンの歌声がたまんない。おおらかと言うか脳天気というか、良くも悪くも大衆娯楽なんだね。
 でもさ、日本の能なんかも外国人から見ればこんな風なのかな。もごもごとなんか訳判んない声で台詞を喋ってるのを見て、あはは、ばっかでェ、とかさ。
 見せ場がたっぷりあるのがいいね。カンフー映画ばりの殺陣なんか見ごたえあるもん。「変瞼」って言うんですか、俳優がつけている仮面が、顔をぶんと振る たびに次々に変わってゆく。五回ぐらい変化してさ、あれは本当に驚いた。仕掛けは門外不出の最高機密らしいよ。それから吹き消された蝋燭の炎が、俳優が手 を近づけると再び灯ったり、亡霊役の女の子が手招きすると、その蝋燭がつつーっと移動したり、いろんな仕掛けが山盛りだった。そうそう、火吹きも演ったん だけど、これが吹いたアルコールや油に着火させているんじゃなくて、どうも口の中にバーナーのようなものを含んでいたみたいだった。

 ところでこれは中国四川の伝統演劇らしいんだけど、ここでいう「伝統」って何だろうね。例えば亡霊が両手を前に突き出して、ぴょんぴょん跳ねながら進 む。これって香港映画でおなじみの「キョンシー」の動きでしょ。ああ、「キョンシー」はこうした演劇をモデルにしているんだなって最初は思った。でもその うち、待てよ、この芝居の方が映画を引用しているんじゃないかって気になってきたんだ。
 終盤、悪霊たちが主人公に復讐するために殴り込みをかける場面があるんだけど、その時の悪霊たちの衣装がどうも「忠臣蔵」なんだよね。確信はないけど、 すごく似てる。似てるけど全然違う。違うっていう意味はさ、もしこれが「忠臣蔵」を模しているとしたら、外国人から見た「忠臣蔵」になっちゃってるんだ よ。ほら、西欧人が描く日本の絵ってなんか変でしょ、中国とベトナムと日本が混ざっちゃったりしてさ。描いた本人は日本のつもりでも、全然違っちゃってる じゃん。あれなんだよ。
 ぼくの推測どうりだとしたら、それは「忠臣蔵」のパロディなんだけど、似てないもんだからマジんなっちゃってる。つまり、意匠ってのは引用されて・盗ま れて・再利用されて、コピーを繰り返されてゆくうちに、いつの間にかオリジナルとは似ても似つかぬ別物に変質してしまうんだね。コピーがオリジナルに転位 しちゃう。
 だからさ、この演劇が伝統的なものなんだって思っちゃうと、面白さを見落とす事になるんじゃないかと思うよ。

 ちょっと気になるのは、群舞の振りが合っていなかったり、たまにジャグリングをミスしたりするところだな。レベル低い奴連れてきて、経費安くあげてんじゃないか、と意地悪なことも思っちゃった。

 ああ、そうそう、悪霊の親玉が道師に左腕を切り落とされちゃって、それを右手にくっつけちゃうのかな、とにかく右腕がビヨーンと3mぐらい伸びちゃう。それ見て『西遊妖猿伝』、思い出した。どうでもいいことだけどね。