2011年3月21日月曜日

旧聞雑輯 戸川純

■戸川純はハンカチを手に嗚咽していた。妹の戸川京子が唐突に自殺したのだった。そのインタビューを朝のワイドショーで見て、ぼくはとても切なくなった。激しく泣きじゃくってはいたけれども、戸川純はいつもの「戸川純を演じる虚実の朦朧とした戸川純」だった。それが切なかった。
■ニューウェーブの玉姫様が、新人類のアイドルと呼ばれて浮かれ騒いだのは、八十年代の狂乱景気の真っ最中だった。エキセントリックな馬鹿少女たちは総出で戸川純風を気取った。馬鹿が祭り上げるものだから、ますます遠目に眺めるようになった。
■ぼくたちのバンドの音楽には「戸川純みたい」という言辞がつきまとって閉口した。そう言う奴にかぎって戸川純にはなんの関心もない輩だったりする。その違いを判らせようとするのは徒労でしかなく、「こいつらダメだな」を口に出さずに愛想良く相手の批評を聞き流した。
■バブルが崩壊した頃だったと思うが、戸川純は自殺未遂事件を起こした。原因は知らぬ。なにかあてつけのような、狂言自殺だったような気もする。その後しばらく、戸川純は芸能の表舞台からは遠ざかっていた。もっとも単にぼくの視野に情報が入ってこなかっただけの事かもしれないが。
■一九九八年、静岡の百人劇場で、戸川純の一人芝居『マリヴォロン』の公演が行われた。この公演のことをどうして知ったのか、ぼくは憶えていない。観に行こうか行くまいか、ぼくは公演日の直前まで迷った。チラシを手にしてチケットを買いに行った時、ぼくはとてもいじわるな、甚だ陰湿な心持ちだった。ぼくはただ、かつてのカリスマ=戸川純の落ちぶれようを確認するつもりだったのだ。
■『マリヴォロン』の作・演出は北村想だった。北村想は八十年代の小劇場ブームを代表する演劇人である。『寿歌』で岸田戯曲賞を受賞。一時期はどの学生劇団の公演も皆そろって『寿歌』という状態があった。名古屋を拠点に活動していた北村想は、その勢いに乗って東京へと進出したが、どういう事情があったのか、唐突に東京離脱宣言をし、地方に引きこもってしまった。つまり北村想も戸川純と同様、栄光の八十年代の後に、ぱっとしない、さえない九十年代をおくっていたのである。
■その前年の秋、ぼくは北村想の新作、『新・十一人の少年』を観た。ぼくが舞台に感じたのは、行く末の見えぬ袋小路感、創造性の閉塞感だった。作者(北村想)は「物語」を成立させることが出来なかった。ナラティヴな台本が書けなかったのだ。
■物語を成立させるのが困難な時代である、とは当時よく使われた物言いである。だが――物語が無惨に消費され食い潰されようと、見えざる物語、発見されなかった物語は厳然としてある――、そう信じていたぼくには、北村想のケリをつけられぬ幕切れは、言うなれば敗北宣言に思えた。
■実際のところはどうだったのだろう。ぼくは何を求めて『マリヴォロン』を観に出かけたのか。本当に、彼らの落ちぶれようを見たかったのか。たしかな事は、ぼくは彼らに、その演劇の内容に全くなんの「期待」もしていなかったということだ。
■戸川純は、宮澤賢治の童話を一人芝居にして巡業をする芝居者を演じた。彼女は舞台で使う道具類の一切合切をワゴンに積んで、ドサ回りを続けている。劇場で公演を行うのではなく、町の公民館や集会所で、近在の住民を相手に芝居をみせる。台本は死んだ父親が残したという設定である。一種のメタ演劇で、戸川純が「戸川純」を演じているような錯覚を生じさせ、『飢餓陣営』『クラムボン』など宮澤賢治の世界が脱力系の演技によって展開していく。「相変わらず宮澤賢治か」と、ぼくは冷ややかに観ていた。ぼくらはいまだに北村想の賢治熱につき合わされるのか。
■だが『マリヴロンと少女』を引用したフラグメントでぼくの感想は一変した。戸川純は、脱力系少女声と、戸川が得意とするもうひとつの声色、艶のあるファムファタール系ボイスで、少女ギルダと歌姫マリヴロン(マリヴォロン)を演じわけた。ぼくは身をのりだしていた。

マリヴォロン「ええ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよそうでしょう。正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向うの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでしょうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじようにわたくしどもはみなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です」
ギルダ「けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います。わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまうのです」
マリヴォロン「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます」
ギルダ「私を教えて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします」
マリヴォロン「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考えるそこにおります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすすむ人々は、いつでもいっしょにいるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう」

■このやりとりは宮澤賢治の原作どうり。そして原作にはない言葉をマリヴォロン=戸川純は口にする。
――芸術家とは、明日世界が滅ぶことが判っていても、夕にトマトの種を播く者のことです。――
■それはぼくの肺腑の琴線を非常な力で衝いた。決して声高に叫んだわけではなかったが、その言葉はぼくの胸を熱くした。二十世紀のどん詰まり、ぼくは「ですぺら」のまっただ中で「どうすればいいのか」と立ち止まっていた。ぼくは「合図」を待っていて、まさにマリヴォロンの台詞はスタートを告げる砲声の瞬間だった。立ち止まるのは絶望を知らぬからだ。絶望を友とし倦まず砂漠を歩み続ける者こそが、ツァラトストラの末裔たりうる。その時、マリヴォロンは戸川純であり、ぼくであり、「いっしょにすんでいっしょにすすむ人々」だった。演劇だけがなしうる秘蹟が起きたのだ。
■もちろん演劇を観るというのはとても個人的なことだから、誰もがぼくと同様な感慨を持つとは限らない。けれども戸川純がいた八十年代を真剣に生きた者は、戸川純が絶望の荒野(あらの)へ一歩を踏み出したことを理解したはずだし、二十一世紀の絶望を生きる準備をしている者は、マリヴォロンの言葉に共鳴したはずだ。
■そこには希望などない、行き着く先は楽園などではない、転げ落ちることを知っていながら丘の上に岩を押し上げるシジフォスのように、無為であると知りながら決して行為することをやめぬ人々。思えば無名のまま死んでいった宮澤賢治も、そのような「立ち止まらぬ者」であった。
■期待はしない、だが断固として支援する。カーテンコールに答える戸川純に、力いっぱい拍手を送りながら、ぼくは思った。

■ワイドショーのインタビューで嗚咽する戸川純。これが、これも彼女の「約束の地」なのか。再び「ですぺら」、「どうすればいいのか」?

2011年3月20日日曜日

水銀座@ボタニカ

水銀座 「断片」演劇上演
19時開場/19時半開演
1500円