2010年2月7日日曜日

07 前夜の斥候

昨夜はKさんの先導で、静岡のライブスペース2軒を偵察。
七間町の「A」と、伝馬町の「M」。
いずれも店主が五十代後半。

吾輩は小屋主との意気投合を望んでいるわけではないが、音楽観というか受容感覚というか、乱暴に言えば「指向」の越えられない壁が、彼らと吾輩の間に存在していることを意外に感じた。

音楽の「嗜好」は個人的なものである。多様性を吾輩は承知している。吾輩が深く関わった「音楽」はマイナーの極北であった。吾輩が「誇れる」音楽 体験を語ったところで、怪訝な顔をされるのがオチである。それ故、彼我の音楽体験の交点が何処にあるのか、吾輩は知ることを要請され、まずは相手に年齢 (世代)を尋ねるのである。T・REXとどのように出会ったか、ユーリズミクスをどう聴いたのか、カーペンターズの歌声で死にたくなったことがあるか、共 感できる個人的体験によって、吾輩は彼我の距離を縮めようとじたばたする。

「A」で、吾輩がプロデュースしたKONORIsp.のCDを聴いていただいた。十数年も前にリリースしたものである。店主は「宝塚 みたいだ」と言い、バンド活動をしているスタッフの若者はクリムゾンを感想した。二人とも正しい。KONORIsp.は二人が言及したような「根」を持っ ている。
吾輩はあらゆる「表現」に、それを支える根があると考える。根が見えないとすれば、それは地中にあるからだ。本当に根がないのなら、樹はほどなく倒れる。ライブスペース店主たちに、ベンチャーズやビートルズやGSの根があることは判った。対話は可能だと判った。

だが、この樹には「新芽」が見つからないのである。これはどうしたことなのか。二十年前、吾輩が出会う音楽はことごとく「新芽」であったのに。二十一世紀音楽にはまだ「新芽」が芽吹いていないのだろうか。吾輩が見つけられないだけなのか。

「新芽」とは時間に風化されぬ「表現」の喩えである。ジミ・ヘンドリックスの歪んだギターの音やT・REXの『20-』最初のストロークの一音が「新芽」である。それは決して古くはならず、懐かしくもならない。「新芽」は常に「現在」である。

「新芽」が無くとも「文化」は存在する。文化に必要なものは「根」であり、「新芽」は二の次である。ライブスペース2軒を回り、吾輩は「音楽文化」の樹をみた。しかし。

あるいは吾輩がボケただけなのか。痴呆で過去がリセットされてしまうため、「新古」の感覚がボロボロになっているだけか。

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