2005年5月28日土曜日

クラッシュ(4)

古書者蒙昧録 其の二十八

 二〇〇一年九月十一日の深夜、アメリカで起きた異常事態を知った翻訳家の山田和子は、《バラードが警告していたことが現実となった》と思った。ちょうど 同じ頃、ドン・デリーロの『アンダーワールド』を訳し終えたばかりの上岡伸雄は、世界貿易センタービルの倒壊に名状しがたい既視感を抱いた。
 バラードの「警告」は、デリーロの「予告」と置き換えることも出来る。例えば次に引用するような『アンダーワールド』の一場面は、ドン・デリーロというアメリカ人作家が「同時多発テロ」を幻視していたと思わせる根拠にはならないだろうか。
《「二つではなくて、ひとつのものとして捉えてるんです」と彼女は言った。「もちろんツイン・タワーであることは明らかなんですけど。でも、存在としてはひとつじゃありません?」
「非常に恐ろしい存在です、でも見ないわけにはいかないんですよね」
「ええ、見ないわけにはいかないんです」》『アンダーワールド』日本版上巻p546-547
 ここで語られている「非常に恐ろしい存在」とは、ニューヨークのWTCである。デリーロがこの物語を書いている頃、世界はまだ冷戦終結の希望が広がる二十世紀だった。ノストラダムスの予言を信じて集団自殺するようなうっかり者は珍しくなかったが、WTCの存在しない新世紀を想像している人々はごく少数 だった。たぶん。
 『アンダーワールド』の装幀にはアンドレ・ケルテスが撮影したWTCの写真が使われている(未見だが、アメリカで出版された元版も、同じ装幀のようだ)。それはこんな写真だ。

 十字架を屋根に掲げた教会の背後にWTCが屹立し(追悼と鎮魂のために十字架の形状をした鉄骨―建築の残骸―がグランドゼロに残された)、雲が低くビル の上層部を覆い隠して垂れこめ(炎上するビルから立ちのぼる黒煙がニューヨークの空に広がる)、中空には一羽の鳥―おそらくは猛禽類―が舞っている(金属 の翼を持った鳥がWTCに向かって飛んでいった)。

 暗示的であり、予言的な画像。その印象を強調するためなのだろうか、日本版には同書からの引用が書籍帯の惹句として使われている。
《「このビルがぜんぶ粉々に崩壊するのが目に浮かびませんか?」
彼は俺の方を見た。
「それがこのビル群の正しい見方なんだと思いませんか?」》
 と、ぼくはここまで、いかにもデリーロが「同時多発テロ」を予言していたかのように書いてきた。だが現実と小説の類似はどこまでも偶然にすぎない。いくつかの偶然が一点で交錯すると、人はついついそこに意味を見出そうとしてしまう。デリーロが《「歴史がフィクションに変わる瞬間だったのかな?」(『アン ダーワールド』日本版下巻p61)》と書こうが、現実と虚構(フィクション)の衝突(クラッシュ)は、ぼくたちの内側で起きている。二つを出会わせている のはぼくたちの想像力であり、虚実の区別がつかなくなったなどと言うのはもっぱら恥知らずな犯罪評論家たちである。
 …そう判っているにもかかわらず、ぼくは『アンダーワールド』を読みすすめてゆくうち、この小説にはぼく自身も参加しているかのような奇妙な感慨を憶えたのだった。
 物語には「大リーグ・グッズ」を扱うガラクタ屋が登場する。その店はこんな具合だ。
《薄汚い階段を下りていくと暗い小部屋に出て、メンバー表や古い唱歌帳、そのほか千もの野球関係の珍品が山積みになっていた。記録や書類のすべてが何本もの柱のように積み上げられ、今にも倒れそうだ。》
 この場所を訪れる客に、店主は言う。
《「ここにある品々には何の美的価値もありません。色褪せてぼろぼろになったものばかり。古い紙切れ、それ以外の何でもないのです。ここに来るお客さんたちはそういう屑の山を求めているんですよ。自分がその一部だって感じられるような歴史をね」》

 これはもしかしたら、ぼく自身の台詞だったのではないか、いや、やがて遠くない将来、ぼくが口にすることになる言葉なのではないか…。

 世界は「クラッシュ」に満ちている。人と人が出会い、様々な事物が出会い、信号機のない交差点で車と車が出会い、超高層ビルとボーイング機がクラッシュする。あとにはトラッシュ(屑)ばかりが残る。ぼくはそのような「場所」で生計を立てている。

2005年5月27日金曜日

クラッシュ(3)

古書者蒙昧録 其の二十七

 一九九八年、イギリスの作家J・G・バラードの『殺す』が邦訳出版された。翻訳家の柳下毅一郎は、同書の解説で次のように書いている。
《バラードが導き出す結論は必ずしも常識とは合致しない。自動車事故はエロチックな経験だと主張されても、首を傾げる人の方が多いだろう。にもかかわらず、バラードの仮説にはまちがいなく真実のかけらがある。ダイアナ英皇太子妃がパパラッチ相手に壮絶なカーチェイスを繰りひろげ、あげくに派手な事故死を遂げたとき、誰もがバラードの〝予言〟を思い出したはずだ。それはこれ以上ないほど見事な、メディアとセレブリティの華麗な衝突(クラッシュ)だった。》

 二〇〇二年、バラードの『コカイン・ナイト』が邦訳出版された。訳者の山田和子は同書のあとがきに《バラードが警告していたことが現実となった》と記した。山田が『コカイン・ナイト』の最終校正をしていたのは、二〇〇一年九月十一日の深夜だった。そのさなか、リアルタイムで、彼女はニューヨークで起きた 「同時多発テロ」を知ったのである。

 スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクは「9.11同時多発テロ」にコメントした文章『現実の砂漠にようこそ』でこう語った。
《世界貿易センタービルの破壊とハリウッドのカタストロフィ映画の関係は、スプラッターもののポルノとありきたりのSMポルノの関係に譬えられないだろうか。》
(朝日出版社刊『発言 米同時多発テロと23人の思想家たち』がこのジジェクの論考を所収している。)

 バラードは一九七三年に発表した『クラッシュ』を、「世界最初のテクノロジーに基づくポルノグラフィー」と自ら称した。『クラッシュ』は刊行当初より高 い評価を受けていたが、日本語版が出版されるまでには二十年の歳月を要した。邦訳が待ち望まれていた小説であったにもかかわらず、長らく刊行に踏み切る出版社が現れなかったのは、『クラッシュ』の内容が、どうみても一般的とは言い難いものであったためだ。交通事故の瞬間に性的エクスタシーを感じるいささか 特殊(「変態」という単語は使いません)な人々がいささか特殊な行為に耽るすこぶる特殊な物語がベストセラーになると考える出版人はかなり特殊である。幸いなことに版元のペヨトル工房は、激しく特殊な出版社だった。それ故、ペヨトル工房は「伝説の出版社」となり、それ故、二十一世紀を待たずに消えた。
 『クラッシュ』はイギリスで初版が刊行され、続いて、バラード自身による序文を加えた版がフランスで出版される。一九九二年に刊行された日本版にも、こ の序文は収録された。バラードは自作を《極端な状況における極端なメタファー、極端な危機の折にのみ利用される一か八かの手引書》と語り、そして次のよう な一節で序文を締め括った。
《言うまでもなかろうが、『クラッシュ』の究極の役割は警告にある。それはテクノロジカル・ランドスケープの辺土にあって、ますます強まる声で呼びかけるこの野蛮な、エロティックな、光輝く領域への警戒信号なのである。》
 日本版『クラッシュ』の訳者は前述の柳下毅一郎、解説はSFを中心にアメリカ文学を批評している巽孝之だった(そのタイトルは、奇しくも「同時多発への道はどれか」である!)。巽は、イギリスでの『クラッシュ』出版と期を同じくして、大西洋をはさんだ大陸ではピンチョンの『重力の虹』が刊行された「偶然」を、文学史上の「同時多発」的「衝突」とみる。今にして思えば、巽もバラードの予言に共振していたのかもしれない。
《一九七三年、自動車衝突がセックスの同義語と化し、セックスがミサイル爆撃の同義語と化す。そのようにテクノロジーとセクシュアリティが衝突し、その地 点においてバラードの属してきた領分同士が衝突する時、最も二十世紀的な時代精神が、(中略)ぼんやりとその素顔をのぞかせる。》
 『重力の虹』もまた、特殊な小説だ。物語の主人公、スロースロップは、《赤ん坊のころミサイル発射と性器勃起が同時稼動するようハーバード大学で条件付 けを施された》。それにより、彼が《セックスする場所にはあとで必ずミサイルが降下する》という異様な因果関係が出現するのである。
 ピンチョンはミサイルの弾道から「重力の虹」という言葉を考えたのだろう。発射地点と落下地点をつなぐ放物線を虹に見立てて。だが、しかし、「重力の虹」はもっと別な形で視覚化された。

 真夜中、ぼくは崩壊するWTCをテレビで見ていた。二つの塔は自らの重みを支えきれずに押し潰されていった。「重力の虹」という言葉が乱反射した。いくつかの偶然の符合と、いくつかの予言と、いくつかの予感が一点で交差し、ぼんやりとした「二十世紀的な時代精神」は、はっきりとその凶暴な姿を現した。
(もう一回だけ続く)

2005年5月26日木曜日

クラッシュ(2)

古書者蒙昧録 其の二十六

 「失われた十年」というのは日本の経済が失速した一九九〇年代を意味するらしい。この十年、ぼくはまだ古本屋ではなかった。うろうろしている間に多くの 蔵書を処分した。売り払ってしまった書籍のほとんどは、おそらくもう手に入らないだろう。それは別段、残念な気がしない。けれども新世紀が明けるとどうい うわけか、宮本隆司写真集『九龍城砦』だけは「もう一度手元におきたい」と強く思うようになった。
 九龍城砦は、香港の啓徳空港のすぐ北西の総敷地面積わずか二.七haの狭い区画に、その数、三百棟とも五百棟ともいわれる大小のビルが超高密度で集まっ た巨大な建築体だった。「阿片戦争」後、香港島と九龍半島は清朝から英国の植民地となったが、九龍城砦だけがその割譲から除外された。以来、英国と中国の 双方がその主権を主張して対立し続けたため、九龍城砦は香港において英国管理のおよばない治外法権の場所として存在し、最高時には五万人もの不法入居者が 流れ込む。無許可/違法な増築工事が際限なくくり返され、いくつもの高層アパートがひとつながりに結合した。その結果、内部は「住人以外の者が一度入った ら、二度と出てこれない」複雑奇怪な迷路のようになってしまう。さらには麻薬、賭博、売春がはびこり、九龍城砦は「香港の魔窟」という悪名を高めてゆくこ とになった。
 一九八〇年代、日本人写真家が謎のベールに包まれた九龍城砦に潜行する。宮本隆司は「東洋最大のスラム」の奇怪な美をうつしとり、その記録は、今では伝説と化した出版社から刊行された。ぼくは『九龍城砦』との出会いに強い衝撃を受けた。
《九龍城砦には、あらゆる存在を終わらせてしまうような、名状しがたいナニカが封印されていて、『九龍城砦』にも「それ=it」はぼんやりとだが、しかし 確かに写っている。ここは我々が行き着く「終末の場所」なのだと思った。二十世紀の袋小路。時代閉塞の具現。九龍城砦が「生きている廃墟」であるように、 我々は生きたまま「屍体」になる。どうやってこの迷宮から脱出すればいいのか。》
 しかし九龍城砦は一九九二年に解体され、地上から消滅する。二十世紀の終わりには、廃墟映像はもはや珍しいものではなくなっていた。内戦で破壊されたサ ラエボの光景が連日ニュース映像に流れ、バブルの崩壊によってうち捨てられたレジャー施設や建造物が、日本のいたるところに出現した。新興宗教団体の施設 も廃墟のようだった。阪神淡路大震災が一瞬にして広大な瓦礫の山を築いた。まるで頭の中の廃墟が現実の世界を浸食してゆくようだった。ぼくは『九龍城砦』 を売り払い、イマジナリーな廃墟と手を切った。
 昭和の終わり頃、ぼく(ら)は真面目に「世界が終わるかもしれない」と思っていた。「こんな風に世界が終わってしまって、本当にそれでいいのか」と自問 していた。そして崩壊を阻止しなければならないと、本気で考えていたのだった。たぶんガルシンの『あかい花』の癲狂院の狂人のように、頭がいかれていたの だろう。》
 もちろん世界は終わらなかったし、「恐怖の大王」も天空から降りてはこなかった。新世紀はあっけなく到来したのだった。けれどもぼくは再び九龍城砦に惹 きつけられているのだった。何故か? ぼくはインターネットで『九龍城砦』の探書と検索を繰り返した。『九龍城砦』を出版したペヨトル工房は二〇〇〇年に 廃業し、九龍城砦と同様、既に存在しなかった。
 ある時、平凡社が同名の写真集を出していることを知った。撮影者は宮本隆司。それはペヨトル工房版『九龍城砦』所収の総ての写真に、解体されてゆく九龍城砦の映像も収録した、増補改訂版だった。

「これ、ありましたよ」
 平野雅彦さんは平凡社版の『九龍城砦』を手にしていた。ぼくにとってはいささか高価な本であったが、迷わず購入した。
《書店の袋を抱え、店を開けたばかりの喫茶店にとびこんだ。テーブルに『九龍城砦』を広げ、ゆっくりと頁をめくっていった。ああ、これだ、この写真だ、 ト、ここちよい緊張感が走り、十年の空白が埋まってゆくような気がした。外では台風15号の風と雨が、しだいに強まってきていた。》
「特別な事件によって、はっきりとその日付が記憶された」と前号で書いた。『九龍城砦』との二度目の出会いは、その翌日、二〇〇一年九月十一日に起きた「同時多発テロ」とひとつながりになって、ぼくの意識に刻みつけられた。
《翌日、9月11日の深夜、崩壊するWTCの映像を見ながら、「するとあれはまだ終わったわけではなかったんだ」と、なにかの小説で読んだフレーズを思い出した。 》(まだ続く)

※《》内は筆者が別の機会に書いた文章からの引用。  

2005年5月25日水曜日

クラッシュ(1)

古書者蒙昧録 其の二十五

 「鉄腕アトム」グッズのコレクターとして全国にその名を知られる平野雅彦さんは、一筋縄ではゆかぬ蒐書家でもあり、また凄腕の古書ハンターとして古本屋を畏れさせている。
 作家の松岡正剛は《友人や知人がほしがっている本を日本中の古本屋からなんらかの方法で見つけだし、これをときにはタダで提供してしまうという奇特な人物》と平野さんを評し、次のように書いた。
《その捜し出す方法がなんとも不思議で、なにかのときに「ひらめく」そうなのだ。たとえば『遊』6号がほしいという人物が平野君に連絡をする。そうする と、平野君はとくに焦るわけでもなく、「はい、いつかね」と言って、そのことを仕舞いおく。ところが、ある日、平野君のアタマのどこかに『遊』6号が世田 谷の多摩川あたりの本屋の片隅に寂しく光っているのが見えるのだ。そこで平野君はその本屋に行く。》
 まったく人と本とはほとんど偶然に、事故のように、なにか不可解な「力」によって出会う、あるいは出会わされるものである。ぼくも己の「出会う力」は半端ではないぞと自負しているが、「他人の分」まで出会ってしまう平野さんは尋常ではない。
 先月(二〇〇三年一〇月)、ぼくはある講座で平野さんと対談をした。「手塚治虫」を軸にして戦後の出版文化を語るという主旨だった。が、オタクの間に実 のある対話など成立するべくもなく、互いの手持ちのネタをひたすら競うという情けない内容に終わってしまった。責任の大半は驚異の博覧強記を披露した平野 さんにあるとこっそり思ったりする(笑)。
 平野さんは以前、『透きとおる石』の特装本をあべの古書店で買ってくれた。『透きとおる石』は畠山直哉の鉱石写真集である。刊行に合わせて「夜想・鉱 物」展が開催され、五〇部限定の「特装本」には、その会場に展示された特装加工写真が付いている。オリジナルプリントはそれぞれ1点しか存在しない。つま り平野さんが所有している『透きとおる石[特装本]』は世界に一冊しか存在しない本なのである。
 ところで平野さんと知り合ったのがいつごろであったか、ぼくはよく憶えていない。『透きとおる石』を購入してもらったのが二〇〇〇年の秋だったから、そ れ以前に出会っていることは確かなのだが。日頃の頻繁な交遊があるわけではなく、何かの催しで偶然出会い、「おや、奇遇ですね、ちょっとお茶でも」といっ た具合にスターバックスへ繰り込むのが常である。
 ある時ノーム・チョムスキーのドキュメンタリー映画を観るため、ぼくは普段よりもずっと早起きをして上映会場へ向かった。途中、見上げたスターバックス の二階の窓から、平野さんが手を振っていた。「奇遇ですね、ぼくもこれからチョムスキーの映画へ行くんですよ」と平野さんが言った。だからチョムスキーの 『9・11』を観た体験と平野さんに会ったことがセットになっているのだけれども、それがいつのことだったのかもう忘れてしまっている。まったくもの忘れ がひどくなった。
 だが、たったひとつ、例外がある。特別な事件によって、はっきりとその日付が記憶されたからだ。たぶん今後も忘れることはないだろう。

 九月十日は台風の接近で朝から雨模様だった。夕刻には東海を通過するらしい。静岡を直撃しそうな気配だったので、ぼくはあべの古書店を臨時休業することにした。
 午前中(そういえばこの日も「普段よりもずっと早起きをして」…)、新刊書店へ行った。店を開けたばかりの谷島屋書店は、まだ客の姿もまばらだった。一階では翻訳書フェアをやっていて、地方の書店では見かけることの少ない小出版社の本が並んでいた。
『サイトメガロウイルス』があった。この本は店頭での入手は難しそうだったので、版元へ注文しようかと思っていたちょうど矢先だった。良いサインだ。探し ていた本との偶然の出会いは不思議と続けて起こるものだと、書物を買い蒐める人々は皆知っている。ぼくはエルヴィ・ギベールの『サイトメガロウイルス』を 購入し、それから二階の売場に上がった。
 フロアに平野雅彦さんがいた。やあ、奇遇ですね、と二言三言立ち話。
 美術書を置いた平台には、河出書房新社から刊行されたトレヴァー・ブラウンの画集が山積みになっている。ぼくがトレヴァーと知り合ってから十年になる。 当時まだイギリスにいたトレヴァーの作品を掲載するのは、怪しげな出版社の怪しげな雑誌ばかりだった。河出書房新社は「怪しげな出版社」ではない。何種類 ものトレヴァーの作品集を眺め、ぼくは彼がいつの間にか人気アーティストになっていたことにいまさらながら気づいた。二十世紀の終わりの十年になにが変わ りなにが変わらなかったのか、とりとめもなく思ってたところへ、背後から「あべのさん」と呼ばれた。振り返ると、「これ、ありましたよ」と言う平野さん は、一冊の写真集を手にしていた。(続く)