2005年5月27日金曜日

クラッシュ(3)

古書者蒙昧録 其の二十七

 一九九八年、イギリスの作家J・G・バラードの『殺す』が邦訳出版された。翻訳家の柳下毅一郎は、同書の解説で次のように書いている。
《バラードが導き出す結論は必ずしも常識とは合致しない。自動車事故はエロチックな経験だと主張されても、首を傾げる人の方が多いだろう。にもかかわらず、バラードの仮説にはまちがいなく真実のかけらがある。ダイアナ英皇太子妃がパパラッチ相手に壮絶なカーチェイスを繰りひろげ、あげくに派手な事故死を遂げたとき、誰もがバラードの〝予言〟を思い出したはずだ。それはこれ以上ないほど見事な、メディアとセレブリティの華麗な衝突(クラッシュ)だった。》

 二〇〇二年、バラードの『コカイン・ナイト』が邦訳出版された。訳者の山田和子は同書のあとがきに《バラードが警告していたことが現実となった》と記した。山田が『コカイン・ナイト』の最終校正をしていたのは、二〇〇一年九月十一日の深夜だった。そのさなか、リアルタイムで、彼女はニューヨークで起きた 「同時多発テロ」を知ったのである。

 スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクは「9.11同時多発テロ」にコメントした文章『現実の砂漠にようこそ』でこう語った。
《世界貿易センタービルの破壊とハリウッドのカタストロフィ映画の関係は、スプラッターもののポルノとありきたりのSMポルノの関係に譬えられないだろうか。》
(朝日出版社刊『発言 米同時多発テロと23人の思想家たち』がこのジジェクの論考を所収している。)

 バラードは一九七三年に発表した『クラッシュ』を、「世界最初のテクノロジーに基づくポルノグラフィー」と自ら称した。『クラッシュ』は刊行当初より高 い評価を受けていたが、日本語版が出版されるまでには二十年の歳月を要した。邦訳が待ち望まれていた小説であったにもかかわらず、長らく刊行に踏み切る出版社が現れなかったのは、『クラッシュ』の内容が、どうみても一般的とは言い難いものであったためだ。交通事故の瞬間に性的エクスタシーを感じるいささか 特殊(「変態」という単語は使いません)な人々がいささか特殊な行為に耽るすこぶる特殊な物語がベストセラーになると考える出版人はかなり特殊である。幸いなことに版元のペヨトル工房は、激しく特殊な出版社だった。それ故、ペヨトル工房は「伝説の出版社」となり、それ故、二十一世紀を待たずに消えた。
 『クラッシュ』はイギリスで初版が刊行され、続いて、バラード自身による序文を加えた版がフランスで出版される。一九九二年に刊行された日本版にも、こ の序文は収録された。バラードは自作を《極端な状況における極端なメタファー、極端な危機の折にのみ利用される一か八かの手引書》と語り、そして次のよう な一節で序文を締め括った。
《言うまでもなかろうが、『クラッシュ』の究極の役割は警告にある。それはテクノロジカル・ランドスケープの辺土にあって、ますます強まる声で呼びかけるこの野蛮な、エロティックな、光輝く領域への警戒信号なのである。》
 日本版『クラッシュ』の訳者は前述の柳下毅一郎、解説はSFを中心にアメリカ文学を批評している巽孝之だった(そのタイトルは、奇しくも「同時多発への道はどれか」である!)。巽は、イギリスでの『クラッシュ』出版と期を同じくして、大西洋をはさんだ大陸ではピンチョンの『重力の虹』が刊行された「偶然」を、文学史上の「同時多発」的「衝突」とみる。今にして思えば、巽もバラードの予言に共振していたのかもしれない。
《一九七三年、自動車衝突がセックスの同義語と化し、セックスがミサイル爆撃の同義語と化す。そのようにテクノロジーとセクシュアリティが衝突し、その地 点においてバラードの属してきた領分同士が衝突する時、最も二十世紀的な時代精神が、(中略)ぼんやりとその素顔をのぞかせる。》
 『重力の虹』もまた、特殊な小説だ。物語の主人公、スロースロップは、《赤ん坊のころミサイル発射と性器勃起が同時稼動するようハーバード大学で条件付 けを施された》。それにより、彼が《セックスする場所にはあとで必ずミサイルが降下する》という異様な因果関係が出現するのである。
 ピンチョンはミサイルの弾道から「重力の虹」という言葉を考えたのだろう。発射地点と落下地点をつなぐ放物線を虹に見立てて。だが、しかし、「重力の虹」はもっと別な形で視覚化された。

 真夜中、ぼくは崩壊するWTCをテレビで見ていた。二つの塔は自らの重みを支えきれずに押し潰されていった。「重力の虹」という言葉が乱反射した。いくつかの偶然の符合と、いくつかの予言と、いくつかの予感が一点で交差し、ぼんやりとした「二十世紀的な時代精神」は、はっきりとその凶暴な姿を現した。
(もう一回だけ続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿