2005年5月25日水曜日

クラッシュ(1)

古書者蒙昧録 其の二十五

 「鉄腕アトム」グッズのコレクターとして全国にその名を知られる平野雅彦さんは、一筋縄ではゆかぬ蒐書家でもあり、また凄腕の古書ハンターとして古本屋を畏れさせている。
 作家の松岡正剛は《友人や知人がほしがっている本を日本中の古本屋からなんらかの方法で見つけだし、これをときにはタダで提供してしまうという奇特な人物》と平野さんを評し、次のように書いた。
《その捜し出す方法がなんとも不思議で、なにかのときに「ひらめく」そうなのだ。たとえば『遊』6号がほしいという人物が平野君に連絡をする。そうする と、平野君はとくに焦るわけでもなく、「はい、いつかね」と言って、そのことを仕舞いおく。ところが、ある日、平野君のアタマのどこかに『遊』6号が世田 谷の多摩川あたりの本屋の片隅に寂しく光っているのが見えるのだ。そこで平野君はその本屋に行く。》
 まったく人と本とはほとんど偶然に、事故のように、なにか不可解な「力」によって出会う、あるいは出会わされるものである。ぼくも己の「出会う力」は半端ではないぞと自負しているが、「他人の分」まで出会ってしまう平野さんは尋常ではない。
 先月(二〇〇三年一〇月)、ぼくはある講座で平野さんと対談をした。「手塚治虫」を軸にして戦後の出版文化を語るという主旨だった。が、オタクの間に実 のある対話など成立するべくもなく、互いの手持ちのネタをひたすら競うという情けない内容に終わってしまった。責任の大半は驚異の博覧強記を披露した平野 さんにあるとこっそり思ったりする(笑)。
 平野さんは以前、『透きとおる石』の特装本をあべの古書店で買ってくれた。『透きとおる石』は畠山直哉の鉱石写真集である。刊行に合わせて「夜想・鉱 物」展が開催され、五〇部限定の「特装本」には、その会場に展示された特装加工写真が付いている。オリジナルプリントはそれぞれ1点しか存在しない。つま り平野さんが所有している『透きとおる石[特装本]』は世界に一冊しか存在しない本なのである。
 ところで平野さんと知り合ったのがいつごろであったか、ぼくはよく憶えていない。『透きとおる石』を購入してもらったのが二〇〇〇年の秋だったから、そ れ以前に出会っていることは確かなのだが。日頃の頻繁な交遊があるわけではなく、何かの催しで偶然出会い、「おや、奇遇ですね、ちょっとお茶でも」といっ た具合にスターバックスへ繰り込むのが常である。
 ある時ノーム・チョムスキーのドキュメンタリー映画を観るため、ぼくは普段よりもずっと早起きをして上映会場へ向かった。途中、見上げたスターバックス の二階の窓から、平野さんが手を振っていた。「奇遇ですね、ぼくもこれからチョムスキーの映画へ行くんですよ」と平野さんが言った。だからチョムスキーの 『9・11』を観た体験と平野さんに会ったことがセットになっているのだけれども、それがいつのことだったのかもう忘れてしまっている。まったくもの忘れ がひどくなった。
 だが、たったひとつ、例外がある。特別な事件によって、はっきりとその日付が記憶されたからだ。たぶん今後も忘れることはないだろう。

 九月十日は台風の接近で朝から雨模様だった。夕刻には東海を通過するらしい。静岡を直撃しそうな気配だったので、ぼくはあべの古書店を臨時休業することにした。
 午前中(そういえばこの日も「普段よりもずっと早起きをして」…)、新刊書店へ行った。店を開けたばかりの谷島屋書店は、まだ客の姿もまばらだった。一階では翻訳書フェアをやっていて、地方の書店では見かけることの少ない小出版社の本が並んでいた。
『サイトメガロウイルス』があった。この本は店頭での入手は難しそうだったので、版元へ注文しようかと思っていたちょうど矢先だった。良いサインだ。探し ていた本との偶然の出会いは不思議と続けて起こるものだと、書物を買い蒐める人々は皆知っている。ぼくはエルヴィ・ギベールの『サイトメガロウイルス』を 購入し、それから二階の売場に上がった。
 フロアに平野雅彦さんがいた。やあ、奇遇ですね、と二言三言立ち話。
 美術書を置いた平台には、河出書房新社から刊行されたトレヴァー・ブラウンの画集が山積みになっている。ぼくがトレヴァーと知り合ってから十年になる。 当時まだイギリスにいたトレヴァーの作品を掲載するのは、怪しげな出版社の怪しげな雑誌ばかりだった。河出書房新社は「怪しげな出版社」ではない。何種類 ものトレヴァーの作品集を眺め、ぼくは彼がいつの間にか人気アーティストになっていたことにいまさらながら気づいた。二十世紀の終わりの十年になにが変わ りなにが変わらなかったのか、とりとめもなく思ってたところへ、背後から「あべのさん」と呼ばれた。振り返ると、「これ、ありましたよ」と言う平野さん は、一冊の写真集を手にしていた。(続く)  

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