2005年5月26日木曜日

クラッシュ(2)

古書者蒙昧録 其の二十六

 「失われた十年」というのは日本の経済が失速した一九九〇年代を意味するらしい。この十年、ぼくはまだ古本屋ではなかった。うろうろしている間に多くの 蔵書を処分した。売り払ってしまった書籍のほとんどは、おそらくもう手に入らないだろう。それは別段、残念な気がしない。けれども新世紀が明けるとどうい うわけか、宮本隆司写真集『九龍城砦』だけは「もう一度手元におきたい」と強く思うようになった。
 九龍城砦は、香港の啓徳空港のすぐ北西の総敷地面積わずか二.七haの狭い区画に、その数、三百棟とも五百棟ともいわれる大小のビルが超高密度で集まっ た巨大な建築体だった。「阿片戦争」後、香港島と九龍半島は清朝から英国の植民地となったが、九龍城砦だけがその割譲から除外された。以来、英国と中国の 双方がその主権を主張して対立し続けたため、九龍城砦は香港において英国管理のおよばない治外法権の場所として存在し、最高時には五万人もの不法入居者が 流れ込む。無許可/違法な増築工事が際限なくくり返され、いくつもの高層アパートがひとつながりに結合した。その結果、内部は「住人以外の者が一度入った ら、二度と出てこれない」複雑奇怪な迷路のようになってしまう。さらには麻薬、賭博、売春がはびこり、九龍城砦は「香港の魔窟」という悪名を高めてゆくこ とになった。
 一九八〇年代、日本人写真家が謎のベールに包まれた九龍城砦に潜行する。宮本隆司は「東洋最大のスラム」の奇怪な美をうつしとり、その記録は、今では伝説と化した出版社から刊行された。ぼくは『九龍城砦』との出会いに強い衝撃を受けた。
《九龍城砦には、あらゆる存在を終わらせてしまうような、名状しがたいナニカが封印されていて、『九龍城砦』にも「それ=it」はぼんやりとだが、しかし 確かに写っている。ここは我々が行き着く「終末の場所」なのだと思った。二十世紀の袋小路。時代閉塞の具現。九龍城砦が「生きている廃墟」であるように、 我々は生きたまま「屍体」になる。どうやってこの迷宮から脱出すればいいのか。》
 しかし九龍城砦は一九九二年に解体され、地上から消滅する。二十世紀の終わりには、廃墟映像はもはや珍しいものではなくなっていた。内戦で破壊されたサ ラエボの光景が連日ニュース映像に流れ、バブルの崩壊によってうち捨てられたレジャー施設や建造物が、日本のいたるところに出現した。新興宗教団体の施設 も廃墟のようだった。阪神淡路大震災が一瞬にして広大な瓦礫の山を築いた。まるで頭の中の廃墟が現実の世界を浸食してゆくようだった。ぼくは『九龍城砦』 を売り払い、イマジナリーな廃墟と手を切った。
 昭和の終わり頃、ぼく(ら)は真面目に「世界が終わるかもしれない」と思っていた。「こんな風に世界が終わってしまって、本当にそれでいいのか」と自問 していた。そして崩壊を阻止しなければならないと、本気で考えていたのだった。たぶんガルシンの『あかい花』の癲狂院の狂人のように、頭がいかれていたの だろう。》
 もちろん世界は終わらなかったし、「恐怖の大王」も天空から降りてはこなかった。新世紀はあっけなく到来したのだった。けれどもぼくは再び九龍城砦に惹 きつけられているのだった。何故か? ぼくはインターネットで『九龍城砦』の探書と検索を繰り返した。『九龍城砦』を出版したペヨトル工房は二〇〇〇年に 廃業し、九龍城砦と同様、既に存在しなかった。
 ある時、平凡社が同名の写真集を出していることを知った。撮影者は宮本隆司。それはペヨトル工房版『九龍城砦』所収の総ての写真に、解体されてゆく九龍城砦の映像も収録した、増補改訂版だった。

「これ、ありましたよ」
 平野雅彦さんは平凡社版の『九龍城砦』を手にしていた。ぼくにとってはいささか高価な本であったが、迷わず購入した。
《書店の袋を抱え、店を開けたばかりの喫茶店にとびこんだ。テーブルに『九龍城砦』を広げ、ゆっくりと頁をめくっていった。ああ、これだ、この写真だ、 ト、ここちよい緊張感が走り、十年の空白が埋まってゆくような気がした。外では台風15号の風と雨が、しだいに強まってきていた。》
「特別な事件によって、はっきりとその日付が記憶された」と前号で書いた。『九龍城砦』との二度目の出会いは、その翌日、二〇〇一年九月十一日に起きた「同時多発テロ」とひとつながりになって、ぼくの意識に刻みつけられた。
《翌日、9月11日の深夜、崩壊するWTCの映像を見ながら、「するとあれはまだ終わったわけではなかったんだ」と、なにかの小説で読んだフレーズを思い出した。 》(まだ続く)

※《》内は筆者が別の機会に書いた文章からの引用。  

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