2010年1月27日水曜日

27 舞台芸術活性化事業

平成13年度舞台芸術活性化事業<公開討論会>

サイト再構築作業中。いろいろ出てくる。何を言いたいのか自分でも判らない箇所があるが、再録してみる。

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3月16日

静岡県舞台芸術センター(SPAC)から送られてきた案内状には「傍聴席からの発言も歓迎」とのお誘い。
「傍聴席」? むう、傍聴と言うのか。なんとなく居心地が悪い響きだが、まあ、ええか。

「平成13年度舞台芸術活性化事業<公開討論会>」を傍聴した。

テーマは「市民参加による舞台芸術の創造――その課題と展望」である。
が、「討論」とは名ばかり。菅孝行(演劇評論家)の基調講演、森本孝文(平成12年度舞台芸術活性化事業参加の演出家)の基調報告、そして「平成13年度舞台芸術活性化事業」に参加している3地域のプロデューサーが、それぞれの現状をスピーチするだけの内容。
「皆さんと活発な討論を行いたい、と思います」という「企画・主旨」が拍子抜け。
「討論」に費やされるべき時間は、来場していたク・ナウカの演出家と関西のホール館長の現状(近況)報告で時間切れとなった。
「傍聴席からの発言も歓迎」の文言がうすら寒い。

お寒いのは「傍聴席」もご同様。

「舞台芸術活性化事業」とは、税金を使って行われる公共事業である。
企業メセナとして民間からの財政援助もあるのかもしれぬが、税金を主な財源としていることは確かだ。

常日頃から助成金の獲得に躍起になっている地域演劇人が、この「公開討論会」を野放しにしておいてよいはずがない。もっと地域演劇人を支援せい、 と問いつめるピンポイントのチャンスである。が、しかし、完全放置か、開催を知らされていなかったのか、彼らの姿はどこにも見えず。

芸術・文化の振興に尽力されている太田京子さん(県議)が出席されていたのがせめてもの救い。

創作者が自腹を切って行う私的な公演ではない、公費で制作される舞台芸術が増えてきたのは、一九九〇年代に入ってからのことである。それに伴いここ数年、「舞台芸術の公共性」がさかんに論議されるようになったが、その定義をめぐり、現場では若干の混乱がある。

上演された舞台、つまり税金を運用した成果を、どういう基準によって評価するのかが甚だ曖昧で、「市民参加による舞台芸術」がどうあるべきかの理念が分裂してしまっているのである。

菅孝行が「住民参加の演劇」をめぐる問題点を簡潔に要約したレジュメを参考にして、あるべき理念を考察してみる。

(菅は、こうしたシンポジウムの場では必ずレジュメを出してくれる。律儀な人だ。
これがすこぶる有用で、この菅孝行手製のA4文書2枚をもらうだけでも「公開討論会」を「傍聴」した甲斐はある。)


菅の分類では、「住民参加演劇の公共的運営」は次のように二分される。
①「芸術性の質を問わない-全員の平等な権利に基づく意志決定-直接参加民主主義」と、②「芸術性の質を問う-専門性の尊重-委託型間接民主主義」のタイプとして。

ぼくはもともと、舞台芸術には公共性などない、とする者で、税金が使われるのだから公共性が最優先されるべきだとは思わない。
しかしそれではいちもにもなく論議終了となってしまうので、ここはひとつ、「『舞台芸術の公共性は』可能か?」という視点から、「公共性」について考えてみる。

税金を使ってゴミ=「芸術性の質を問わない」舞台が生産されることを望むのは、ごく少数の住民だけだと思われる。たいがいの観客はゴミではないものを求めて劇場に足を運んでいるはずだ。
いや、失礼、「芸術性の質を問わない」舞台=ゴミではない、「芸術性の質を問わない」舞台>ゴミが正しい。「芸術性の質を問わない」住民参加演劇は、たとえ上演された成果がゴミであったとしても、そのことで罵倒されたりはしないのである。理念的には。
俺たちの税金を使ってこんなクズをつくりやがって、と非難されるのは、もっぱら「質」を問われた②の住民参加演劇である。

あるいは「質」を問われた公共劇団。 混乱している。 では次のような場合はどうか。
「住民参加演劇」への参加をキャリアのステップとして、そこから芸能活動への参入を狙っている人々がいる。
「プロフェッショナルへの階梯として成果を求める」人々が多数結集すれば、芸術性の質の向上は期待されていい。
プロ志向の人々は差別化を許容するからだ。
「全員の平等な権利に基づく意志決定」よりも「専門性の尊重」が選択されて当然。

だが、野望と情熱は人一倍あるが才能がないメンバーによって作られた舞台は、十中八九、くそったれな舞台だ。
②として失格であり、その成果が厳しく問われることになろう。しかし彼らには、①のタイプの「住民参加演劇」を目指していたのだと弁明することができる。常に、退路は用意されているのである。

それもまあ、ええわ。クズだろうが伝説だろうが、演劇は演劇だ。

ぼくが疑問に思っているのは、それ以前の問題。
そもそも「舞台芸術活性化事業」は、
住民に対して参加の機会を均等に与えているのか、ということ。
活動は参加者の余剰時間において行われる。

世間には余剰時間を持つ者と持たざる者が存在しているわけで、当然ながら日々の生活に追われているような者には、「住民参加演劇」に参加する資格はない。

また、日が沈む時分に目を覚まして仕事に出かけるような勤労者は、たとえ充分な余剰時間があったとしても、参加は不如意であろう。
参加へのハードルは厳然として「ある」。

皮肉なことにこの事業は、社会的無用者=余剰時間強者に対してより開かれている。

未就労者と元・就労者が中心となっている。

コミュニティの基幹となるべき世代(三十代~五十代)が欠落しているのである。

社会の縮図としては甚だ奇形であると言わざるをえない。
そして参加者や、創作を委託された「芸術家」には、どこか市民活動のプロ(プロ市民)と似た感触がある。
その胡散臭さ。

差別化と排除から出発する「事業」は、いったいどこで「公共性」を獲得するのだろうか。

ぼくには判らない。

ところで
菅によれば、日本では過去、素人芝居が隆盛を極めた時期が三度あるという。
六十年代の学生運動を背景としたアングラ演劇。
四、五十年代の労働運動を背景とした自立演劇(職場演劇)。
そして戦時下の素人演劇。
いずれも世情に血と暴力の気配が濃厚に漂っているのが興味深い。

戦時下の素人演劇は残された資料が少ないため、その実体はまだよく調査されていないが、活動は活発で、戦意昂揚というか国威宣揚というか、コミュニティに対する啓蒙手段として演劇が利用されていたらしい。
そうした演劇を担っていたのは銃後の人々、すなわち女子供を中心とした未就労者と元・就労者であったのだろう。
コミュニティの基幹となるべき世代は戦場にいる。

アナロジーとして逆説的に語るなら、
いま、素人演劇が盛んになっているとすれば、
それは我々はいま、我々を巻き込んだ「新しい戦争」のさなかにいるからである。

行政が素人演劇の推進に介入している現状を、
戦時中の国策に重ねることは容易だ。

演劇が「必要」とされる時代は不幸である。
演劇=祝祭が効力を発揮するのは、非常時/緊急時においてである。
演劇は日常では「無用」物であるからこそ、その存在価値がある。
神性は「無用」物の中に顕現する。
人の手では扱えぬ神性を担っていたのがコミュニティから排斥される異端であったことは、芸能の歴史が明示している。


ぼくは素人芝居礼讃派である。
もとより芝居なんてモンは女子供のものである。
一番良いのは長屋の面々が集まって演じる「花見の芝居」だと思っている。


演劇活動はすべからく主体的な行為である。
あるいはこのようにも言える。
余剰時間において行われる営為は、すべからく主体的である。

参加者は公共の意志を背景にして参加しているのではない。
参加者をつき動かすものは、己の欲望、ただそれだけである。

したがって、
「芸術性の質」を問わない/問えないような作品の出現は、激しく批判しなければならぬし、そのことに対し、大いに問いつめなければならない。

治癒行為として行われている演劇は、舞台に立つ側の人々が被治癒者である。
「演劇」者が観客を治癒しているわけではない。
観客が「演劇」者を治癒している。
「観る」ことが「観られる(舞台の上の)」人々を癒しているのである。
ことによると、
観客が「俳優」を癒すことにより、観客自身が癒されるという相互治癒が発生しているのかもしれぬ。
演劇がそのようなものであってはならぬ理由はない。
いずれにしても「事業」を推進する方々には「観客論」が致命的に欠損している。 どれほど誠実に、真摯に「事業」と取り組んでいたとしても、三本目の腕は生えてはこない。

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