2009年10月19日月曜日

J・G・バラード追悼 その1

昔、こんな文章を書いた。抜粋。

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クラッシュ(3)

 1998年、イギリスの作家J・G・バラードの『殺す』が邦訳出版された。翻訳家の柳下毅一郎は、同書の解説で次のように書いている。
《バラードが導き出す結論は必ずしも常識とは合致しない。自動車事故はエロチックな経験だと主張されても、首を傾げる人の方が多いだろう。にもか かわらず、バラードの仮説にはまちがいなく真実のかけらがある。ダイアナ英皇太子妃がパパラッチ相手に壮絶なカーチェイスを繰りひろげ、あげくに派手な事 故死を遂げたとき、誰もがバラードの〝予言〟を思い出したはずだ。それはこれ以上ないほど見事な、メディアとセレブリティの華麗な衝突(クラッシュ)だっ た。》

 2002年、バラードの『コカイン・ナイト』が邦訳出版された。訳者の山田和子は同書のあとがきに《バラードが警告していたことが現実となっ た》と記した。山田が『コカイン・ナイト』の最終校正をしていたのは、2001年9月11日の深夜だった。そのさなか、リアルタイムで、彼女はニューヨー クで起きた「同時多発テロ」を知ったのである。

 スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクは「9.11同時多発テロ」にコメントした文章『現実の砂漠にようこそ』でこう語った。
《世界貿易センタービルの破壊とハリウッドのカタストロフィ映画の関係は、スプラッターもののポルノとありきたりのSMポルノの関係に譬えられないだろうか。》
(朝日出版社刊『発言 米同時多発テロと23人の思想家たち』がこのジジェクの論考を所収している。)

 バラードは1973年に発表した『クラッシュ』を、「世界最初のテクノロジーに基づくポルノグラフィー」と自ら称した。『クラッシュ』は刊行当 初より高い評価を受けていたが、日本語版が出版されるまでには二十年の歳月を要した。邦訳が待ち望まれていた小説であったにもかかわらず、長らく刊行に踏 み切る出版社が現れなかったのは、『クラッシュ』の内容が、どうみても一般的とは言い難いものであったためだ。交通事故の瞬間に性的エクスタシーを感じる いささか特殊(「変態」という単語は使いません)な人々がいささか特殊な行為に耽るすこぶる特殊な物語がベストセラーになると考える出版人はかなり特殊で ある。幸いなことに版元のペヨトル工房は、激しく特殊な出版社だった。それ故、ペヨトル工房は「伝説の出版社」となり、それ故、二十一世紀を待たずに消え た。
『クラッシュ』はイギリスで初版が刊行され、続いて、バラード自身による序文を加えた版がフランスで出版される。1992年に刊行された日本版 にも、この序文は収録された。バラードは自作を《極端な状況における極端なメタファー、極端な危機の折にのみ利用される一か八かの手引書》と語り、そして 次のような一節で序文を締め括った。
《言うまでもなかろうが、『クラッシュ』の究極の役割は警告にある。それはテクノロジカル・ランドスケープの辺土にあって、ますます強まる声で呼びかけるこの野蛮な、エロティックな、光輝く領域への警戒信号なのである。》
 日本版『クラッシュ』の訳者は前述の柳下毅一郎、解説はSFを中心にアメリカ文学を批評している巽孝之だった(そのタイトルは、奇しくも「同時 多発への道はどれか」である!)。巽は、イギリスでの『クラッシュ』出版と期を同じくして、大西洋をはさんだ大陸ではピンチョンの『重力の虹』が刊行され た「偶然」を、文学史上の「同時多発」的「衝突」とみる。今にして思えば、巽もバラードの予言に共振していたのかもしれない。
《一九七三年、自動車衝突がセックスの同義語と化し、セックスがミサイル爆撃の同義語と化す。そのようにテクノロジーとセクシュアリティが衝突 し、その地点においてバラードの属してきた領分同士が衝突する時、最も二十世紀的な時代精神が、(中略)ぼんやりとその素顔をのぞかせる。》
『重力の虹』もまた、特殊な小説だ。物語の主人公、スロースロップは、《赤ん坊のころミサイル発射と性器勃起が同時稼動するようハーバード大学 で条件付けを施された》。それにより、彼が《セックスする場所にはあとで必ずミサイルが降下する》という異様な因果関係が出現するのである。
 ピンチョンはミサイルの弾道から「重力の虹」という言葉を考えたのだろう。発射地点と落下地点をつなぐ放物線を虹に見立てて。だが、しかし、「重力の虹」はもっと別な形で視覚化された。

 真夜中、ぼくは崩壊するWTCをテレビで見ていた。二つの塔は自らの重みを支えきれずに押し潰されていった。「重力の虹」という言葉が乱反射し た。いくつかの偶然の符合と、いくつかの予言と、いくつかの予感が一点で交差し、ぼんやりとした「二十世紀的な時代精神」は、はっきりとその凶暴な姿を現 した。


クラッシュ(4)

2001年9月11日の深夜、アメリカで起きた異常事態を知った翻訳家の山田和子は、《バラードが警告していたことが現実となった》と思った。 ちょうど同じ頃、ドン・デリーロの『アンダーワールド』を訳し終えたばかりの上岡伸雄は、世界貿易センタービルの倒壊に名状しがたい既視感を抱いた。
バラードの「警告」は、デリーロの「予告」と置き換えることも出来る。例えば次に引用するような『アンダーワールド』の一場面は、ドン・デリーロというアメリカ人作家が「同時多発テロ」を幻視していたと思わせる根拠にはならないだろうか。
《「二つではなくて、ひとつのものとして捉えてるんです」と彼女は言った。「もちろんツイン・タワーであることは明らかなんですけど。でも、存在としてはひとつじゃありません?」
「非常に恐ろしい存在です、でも見ないわけにはいかないんですよね」
「ええ、見ないわけにはいかないんです」》『アンダーワールド』日本版上巻p546-547
ここで語られている「非常に恐ろしい存在」とは、ニューヨークのWTCである。デリーロがこの物語を書いている頃、世界はまだ冷戦終結の希望が広 がる二十世紀だった。ノストラダムスの予言を信じて集団自殺するようなうっかり者は珍しくなかったが、WTCの存在しない新世紀を想像している人々はごく 少数だった。たぶん。
『アンダーワールド』の装幀にはアンドレ・ケルテスが撮影したWTCの写真が使われている(未見だが、アメリカで出版された元版も、同じ装幀のようだ)。それはこんな写真だ。

十字架を屋根に掲げた教会の背後にWTCが屹立し(追悼と鎮魂のために十字架の形状をした鉄骨―建築の残骸―がグランドゼロに残された)、雲が低 くビルの上層部を覆い隠して垂れこめ(炎上するビルから立ちのぼる黒煙がニューヨークの空に広がる)、中空には一羽の鳥―おそらくは猛禽類―が舞っている (金属の翼を持った鳥がWTCに向かって飛んでいった)。

暗示的であり、予言的な画像。その印象を強調するためなのだろうか、日本版には同書からの引用が書籍帯の惹句として使われている。
《「このビルがぜんぶ粉々に崩壊するのが目に浮かびませんか?」
彼は俺の方を見た。
「それがこのビル群の正しい見方なんだと思いませんか?」》
と、ぼくはここまで、いかにもデリーロが「同時多発テロ」を予言していたかのように書いてきた。だが現実と小説の類似はどこまでも偶然にすぎな い。いくつかの偶然が一点で交錯すると、人はついついそこに意味を見出そうとしてしまう。デリーロが《「歴史がフィクションに変わる瞬間だったのか な?」(『アンダーワールド』日本版下巻p61)》と書こうが、現実と虚構(フィクション)の衝突(クラッシュ)は、ぼくたちの内側で起きている。二つを 出会わせているのはぼくたちの想像力であり、虚実の区別がつかなくなったなどと言うのはもっぱら恥知らずな犯罪評論家たちである。
…そう判っているにもかかわらず、ぼくは『アンダーワールド』を読みすすめてゆくうち、この小説にはぼく自身も参加しているかのような奇妙な感慨を憶えたのだった。
物語には「大リーグ・グッズ」を扱うガラクタ屋が登場する。その店はこんな具合だ。
《薄汚い階段を下りていくと暗い小部屋に出て、メンバー表や古い唱歌帳、そのほか千もの野球関係の珍品が山積みになっていた。記録や書類のすべてが何本もの柱のように積み上げられ、今にも倒れそうだ。》
この場所を訪れる客に、店主は言う。
《「ここにある品々には何の美的価値もありません。色褪せてぼろぼろになったものばかり。古い紙切れ、それ以外の何でもないのです。ここに来るお客さんたちはそういう屑の山を求めているんですよ。自分がその一部だって感じられるような歴史をね」》

これはもしかしたら、ぼく自身の台詞だったのではないか、いや、やがて遠くない将来、ぼくが口にすることになる言葉なのではないか…。

世界は「クラッシュ」に満ちている。人と人が出会い、様々な事物が出会い、信号機のない交差点で車と車が出会い、超高層ビルとボーイング機がクラッシュする。あとにはトラッシュ(屑)ばかりが残る。ぼくはそのような「場所」で生計を立てている。

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